2008.02.29 Friday
「物語(というか物語を考えるハウツー)」も手段に過ぎないというのが最近感じることです。
物語を考えること自体に目的や価値があるのではなくて、まず最初にもっと大事な「描きたいもの」「描かれるべきもの」があって、それをカタチにするときの手段として「絵」があり「キャラ」があり「物語」があり「世界観」があり…といった感じ。
起承転結のストーリーラインを一生懸命考えて起伏のある物語を考えたからといって、それだけ(物語の筋だけ)で良いマンガ(=描くところまで至れるマンガ)になるということではない。
抜け忍モノの思考実験が上手く行かなかったのは、「(今回のケースでは『抜け忍モノ』というものであるが)題材が何であれ物語を上手く考えることができれば面白くて描けるものになるはず」というふうに物語のチカラへの見積もりが大きすぎたからではないだろうか。
絵を描くことを重視するあまり「美麗な絵を描くことを念頭に置いていれば(シナリオがどういうものであれ)描くことができるはず」と考えても自分にとって興味の無いシナリオでは絵の方もまともに描けない(少なくともわたしには描けない)のと同じで、重要なものが足りないから「物語力」だけじゃハードルを越えられなかったと、それだけのことではないだろうか。
空っぽの頭でとりあえず選んだのが「抜け忍モノ」だったから描けないのではないだろうか。
自分の中でなにかの芽を見つけて、そこから「だから○○モノ」というふうにしっくり来るフォーマットが見つけ出せれば描けるんじゃないか。
逆に言えば、物語を考えることそのものは実は簡単なのだ。「問題⇒解決」とか「目的⇒チャレンジ⇒達成/挫折」とか「葛藤」とか「起承転結」とかのコツを知っていればほとんどオートマティックに物語を作ることは出来る。
だから物語を生成することそのものが作品のよさや魅力を生み出すわけではない。末端の技術に過ぎない。
もっと手前のところ、もっと根元のところ、そこを問題にしないといけない。
わたしがいつも気にしている要素のひとつである「なにがその描き手のモチベーションを刺激しているのか」を見ようとする着眼点とかそういうところの思考にスポットライトを当てるべきなのではないだろうか。
物語を考えること自体に目的や価値があるのではなくて、まず最初にもっと大事な「描きたいもの」「描かれるべきもの」があって、それをカタチにするときの手段として「絵」があり「キャラ」があり「物語」があり「世界観」があり…といった感じ。
起承転結のストーリーラインを一生懸命考えて起伏のある物語を考えたからといって、それだけ(物語の筋だけ)で良いマンガ(=描くところまで至れるマンガ)になるということではない。
抜け忍モノの思考実験が上手く行かなかったのは、「(今回のケースでは『抜け忍モノ』というものであるが)題材が何であれ物語を上手く考えることができれば面白くて描けるものになるはず」というふうに物語のチカラへの見積もりが大きすぎたからではないだろうか。
絵を描くことを重視するあまり「美麗な絵を描くことを念頭に置いていれば(シナリオがどういうものであれ)描くことができるはず」と考えても自分にとって興味の無いシナリオでは絵の方もまともに描けない(少なくともわたしには描けない)のと同じで、重要なものが足りないから「物語力」だけじゃハードルを越えられなかったと、それだけのことではないだろうか。
空っぽの頭でとりあえず選んだのが「抜け忍モノ」だったから描けないのではないだろうか。
自分の中でなにかの芽を見つけて、そこから「だから○○モノ」というふうにしっくり来るフォーマットが見つけ出せれば描けるんじゃないか。
逆に言えば、物語を考えることそのものは実は簡単なのだ。「問題⇒解決」とか「目的⇒チャレンジ⇒達成/挫折」とか「葛藤」とか「起承転結」とかのコツを知っていればほとんどオートマティックに物語を作ることは出来る。
だから物語を生成することそのものが作品のよさや魅力を生み出すわけではない。末端の技術に過ぎない。
もっと手前のところ、もっと根元のところ、そこを問題にしないといけない。
わたしがいつも気にしている要素のひとつである「なにがその描き手のモチベーションを刺激しているのか」を見ようとする着眼点とかそういうところの思考にスポットライトを当てるべきなのではないだろうか。



