Memo - Love & Comic - いしいたけるのマンガのサイト

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08022901
「物語(というか物語を考えるハウツー)」も手段に過ぎないというのが最近感じることです。
物語を考えること自体に目的や価値があるのではなくて、まず最初にもっと大事な「描きたいもの」「描かれるべきもの」があって、それをカタチにするときの手段として「絵」があり「キャラ」があり「物語」があり「世界観」があり…といった感じ。

起承転結のストーリーラインを一生懸命考えて起伏のある物語を考えたからといって、それだけ(物語の筋だけ)で良いマンガ(=描くところまで至れるマンガ)になるということではない。

抜け忍モノの思考実験が上手く行かなかったのは、「(今回のケースでは『抜け忍モノ』というものであるが)題材が何であれ物語を上手く考えることができれば面白くて描けるものになるはず」というふうに物語のチカラへの見積もりが大きすぎたからではないだろうか。

絵を描くことを重視するあまり「美麗な絵を描くことを念頭に置いていれば(シナリオがどういうものであれ)描くことができるはず」と考えても自分にとって興味の無いシナリオでは絵の方もまともに描けない(少なくともわたしには描けない)のと同じで、重要なものが足りないから「物語力」だけじゃハードルを越えられなかったと、それだけのことではないだろうか。

空っぽの頭でとりあえず選んだのが「抜け忍モノ」だったから描けないのではないだろうか。
自分の中でなにかの芽を見つけて、そこから「だから○○モノ」というふうにしっくり来るフォーマットが見つけ出せれば描けるんじゃないか。

逆に言えば、物語を考えることそのものは実は簡単なのだ。「問題⇒解決」とか「目的⇒チャレンジ⇒達成/挫折」とか「葛藤」とか「起承転結」とかのコツを知っていればほとんどオートマティックに物語を作ることは出来る。
だから物語を生成することそのものが作品のよさや魅力を生み出すわけではない。末端の技術に過ぎない。

もっと手前のところ、もっと根元のところ、そこを問題にしないといけない。
わたしがいつも気にしている要素のひとつである「なにがその描き手のモチベーションを刺激しているのか」を見ようとする着眼点とかそういうところの思考にスポットライトを当てるべきなのではないだろうか。
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| マンガについての考えごと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
右脳が動いた
右脳的アイデアが出たのでメモ。

荒木飛呂彦氏が短編集のあとがきで、「限定されたページ数だから限定されたシチュエーションで描いたら面白いんじゃないか」とかそういうことを書いていました。
わたしのマンガも基本的には主人公とヒロイン(最近で言うならえりかさん)とのふたりしか出てこない。じゃあこのふたりしかいないということをさらに限定した設定にしたらどうかと考えたのです。
つまり、世界にこのふたりしかいないシチュエーション。
「はじめ人間ギャートルズ」やアダムとイブみたいに人間の一番はじめのふたり組みか、または世界が破滅してふたりだけ生き残った終わりのふたり組みかのどちらかになるのかなと考えたのですが、そこで思い当たったのが「はじめと終わりとは輪になってるんだな」ということです。
世界が破滅してふたりしか人間がいなくなったらそのふたりがアダムとイブになるわけで、つまり「ふたりだけ」というのははじめであり終わりでもある。
で、ふたりしかいないという条件を生かすのなら「三人目を求める」というストーリーになる。男女なんだからこどもを作ればいいんだろうけれどわたしはえろいのを描くのは好きだけれど性行為を描くのは好きではない。だから生殖という選択肢は削除しておこう。
三人目の人間は厳密には人間ではなくて妖精みたいな存在で、世界のどこかの地面から生えている。もちろん三人目の人間とはユニのことで最後のふたりのこどもに相当する。ユニの角がたけのこみたいだなと感じることがあるので「地面から生えている」と連想した。
物語のコツは「葛藤」だから、主人公とヒロインとに葛藤を持たせる。
主人公が三人目を探すのは、自分が死んだあとヒロインがひとりになってしまうのが可哀想だから。つまり主人公は人間、ヒロインは不死か・人間よりも寿命の長い生き物。ロボットとかエルフとか。主人公の抱く葛藤はヒロインを残して先に死ななければならないという苦悩。
ヒロインの抱く苦悩は、彼女は本当は三人目を探したくない。主人公とふたりきりの世界を保ちたい。けれど主人公の抱く目的だから従う。
主人公と不死のヒロインとのふたりは三人目を・彼らのこどもを探す旅に出て、こどもを得る。最後にこどもを得るのと同時に主人公が死んでしまうと劇的なんだけれどそうするとヒロインは新しい登場人物であるこどもとなじめないだろうから、主人公とヒロインとこどもとの三人が家族になるところで物語を締めるのがいいと思う。

主人公がどうやってこどものことを知り、それを得るのかというところのアイデアを考えること。
| マンガのアイデア | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
ぜんぜん描けねえよぼけ
投稿用マンガを描く!と肩に力を入れた途端に何も描けなくなりました。いやあこれこそがマンガを描くという行為の原点ですよ。描けないことで徐々に精神状態が不安定になっていく。大学時代もコンビニ時代も精神が不安定になって大学構内や近所をうろうろ徘徊していたという記憶があります。

わたしにはマンガ力(マンガを描く能力)が無いので、わたしみたいなやつでも描けるようにいかにマンガのハードルを下げるのか、ということをいつも考えていたはずでしたね。ここのメモでも。

難しい注文ばかり積み上げてそれが原因でマンガそのものが描けなくなったら全く意味が無い(というかふざけてる)ので、注文に優先順位をつけよう。ここで言う注文とはわたしの内部での問題意識であって他人からの要求ということではないです。

真っ先に捨てるべき注文。
捨てたいものから捨てよう。
自己批判的なもの。
つまり、自分が見つけ出した数少ない「得意パターン」「自分の琴線に触れる要素」を導入することを否定する考えは捨てよう。
大学の知り合いあたりは「自分の大好きな自分を理解しない他人というものをだな」みたいな批判を寄越すことがある。本当にうざったいんだがわたしにしてはらしくなくその批判の影響を受けてしまう。けれどその影響かでマンガが描けた例は無い。批判をクリアした上でマンガを描くなんていう高度なチカラはわたしには微塵も備わっていないのだ。

次に捨てるべき注文。
これも批判の部類。
大塚英志などによるマンガ批評の本に描かれているような「最近のマンガはこういうところがダメだ」的なものは考えないようにしよう。
上記のと同じ理由で、批判を受けないようなマンガは難しくてわたしには描けない。

要するに自分由来のではなく他人由来の問題意識は自分に根付いて無いので無理してフォローしようとするなということだ。


案:魔王バラーをそのまま使って投稿作にしたらどうか。
投稿作向けのエピソードを考えて、今までのノリのままで魔王バラーを書き足す。
新しい設定を考えようとしても「魔王バラー的な」というふうに探そうとしてしまうので、だったら魔王バラーで描けばいいんじゃないか。

出社時間なので投稿。
| マンガについての考えごと | 08:31 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
キャラクターのおまけとしての物語
今日はこれを書いておかなくては。

東方シリーズはシューティングゲームそのものを遊ばなくても設定資料集や二次創作を見ているだけで楽しめる。実際に消費されるのは個々の断片(二次創作やシューティングゲーム)そのものではなくてそれらを通して現れてくる大きな世界観である。東浩紀の言うところのデータベース消費ですね。

で。

重要なのはキャラクターや彼らの住む世界観。
マンガそのものはそれらの具体的な適用例という位置付けと認識する。データベース消費肯定ということですね。あるいは物語の持つチカラやメッセージ性への諦め。
ビックリマンシールの裏にちょっとしたエピソードが書かれていますよね。そういう、おまけとしてのエピソード。
東方においては魅力的なキャラや設定が具体的に描かれる際の方便としてまずシューティングゲームがある。そのように、キャラや世界観設定がまず重要なものとしてある。マンガという個々のエピソードは「それを通してキャラクターや世界観が透けて見える」ようにするための覗き穴に過ぎない。
と、とらえた上でマンガを考えてみたらどうか。

具体的に言えばがんばってストーリーを整えて31ページの短編を描こうとするのではなく、いつもの1ページづつマンガのノリのまま新しいフォーマットでマンガを描いていって、切りのいいページ数のところで無理やりにでもオチをつけて、それをもって投稿作にしろ!ということだ。

これからの思考実験は普段のノリで1ページづつ描くコメディマンガのフォーマットを投稿作向けに最適化するにはどうしたらいいかという主題でやりましょうか。
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| マンガについての考えごと | 23:38 | comments(2) | trackbacks(0) | permalink |
移行対象
しつこいことにまだ大塚英志を読んでいました。『人身御供論』。



この本で紹介されている「移行対象」という考え方が勉強になりました。

「PEANUTS(スヌーピーのマンガですね)」に出てくるライナスというキャラが持っている毛布や、テディベアなんかがその例として引き合いに出されるのが移行対象というものですね。

引用:「<移行対象>とは子供が母親の庇護下から離れ、ひとり立ちしてゆくプロセスで見出す事物」

成長の過程において強く愛着を持たれ、成長とともに飽きられるもの。

引用:「『移行対象』をめぐる幻想は最終的には『幻滅』されることで『現実』への軟着陸を可能にするのである。『移行対象』は意味(=幻想)を徐々に失い忘れ去られる運命にあり、『幻滅』を引き受けることも『移行対象』の重要な役割なのだ。」

ピーターポールアンドマリーの歌に「PUFF, THE MAGIC DRAGON」というのがあります。
その歌ではまさに、こどもと移行対象との関係が描かれていますね。
「パフ」という名前の竜がいて、ジャッキー・ペーパーという名前のこどもと仲良くなります。けれどジャッキー・ペーパーは成長するに従って別のおもちゃに興味が移っていきパフのことを忘れ去ります。で、パフは悲しくなって洞窟にこもってしまう。そういう内容の歌です。



この歌ではまさに魔法の竜のパフがジャッキー・ペーパーにとっての移行対象ですね。

ちなみに英語文化圏では熊がそういう移行対象のメタファーとして認識されているんだそうです。テディベアとかパディントンとかがクマですね。
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| マンガについての考えごと | 21:22 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
マンガが描けないマンガ07
マンガページ Love & Comic マンガが描けないマンガ
| マンガあり | 00:16 | comments(4) | trackbacks(0) | permalink |
オリジナルキャラを東方世界に投入するとか
バラーは置いておいて東方の世界観にオリジナルキャラを捏造する試み。

龍

名前は… 高天原 蛟(たかみがはら みずち)
種族は龍。
天変地異を操る程度の能力。
危険度:極高
遭遇頻度:極低
友好度:普通

設定資料集によると「龍」という種族は幻想郷で最も高い位にいる神らしい。でもわたしの知る限り龍の肩書きを持つ公式キャラはいないみたいですね。ウィンドウズ以前のシリーズに出てきてるのかもしれない。最新作に出てきてるのかもしれない。どっちにせよわたしは知らない。もしまだ出てないにせよどうせ最上級に重要なキャラがいずれ龍の肩書きで登場するだろう。だから本来第三者が勝手にオリジナルキャラを東方の世界観に捏造するのなら数が増えても当たり障りの無い種族(人間とか八百万の神とか幽霊とか妖精とか)のほうが向いている。
でも思いついたのが龍の種族だったので龍で。
姿は人間とそっくり。東方の世界には珍しく男性型。
彼の両目は博麗神社に祭られているという天気予報ができる龍神の像にはめ込まれているため現在両方とも空っぽ。
幻想郷における龍への信仰心の低下を憂いて(というか龍の存在の影の薄さに腹を立てて)珍しく幻想郷に顕現する。まずは新聞記者である射命丸を呼びつけて自分のことを記事にさせる。自己顕示欲が強くて寂しがりや。
幻想卿のみんなは愛想笑い(苦笑い)を浮かべてひととおり敬う振りを見せてくれたので満足して天に帰っていく。それ以降はスペルカードシステムに興味を持ったようでたまに遊びに来るが闘争心が薄いためこのルールの下での戦いには強くない。

いいっすねーこういう厨っぽいことをどんどん考えるべきですよ。


やられ役ラスボス

これは東方とは関係なく、「以下にもやられ役っぽいボスキャラっぽい怪獣」。
「ヒーローの世界に移動してはヒーローに倒される悪役」のアイデアで、彼はヒーローと戦うときにいかにもやられ役っぽい乗り物で挑む。動きが鈍重でパワーばかり強くて精神系の攻撃はしない。火を吐いたりビームを出したり岩石を投げたりする。
| 雑記 | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
空飛ぶ魔王城
魔王バラーのアイデアで思い浮かんだものメモ。
2つ前の記事「東方魔王城」のアイデアをヒントに。

バラーの城は移動可能(または持ち運び可能)。いろいろな世界を城ごと移動することができる。
バラーたちは行く先々の世界で世界征服をしようとするがその都度その世界のヒーローに撃退される。

仮面ライダーなんかではヒーロー側が固定でさまざまな怪人や宇宙人・怪獣が出てくるが、今回のアイデアでは悪の組織(=バラー)側が固定でさまざまなヒーローが次々に出てくる。
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| マンガのアイデア | 18:57 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
物語なんかいるかぼけ
ネガティブ発言!

これだけ(抜け忍アイデアですね)ストーリーのアイデアを考えても決定事項を選択できないということはわたしには物語を描く適性が無いということだ。考えられるのと描けるのとでは違う。アイデアを考え付くことができてもその中から取捨選択して決定版を纏め上げるだけの選択の基準がわたしには無い。

ストーリーなんかつまりどうでもいいんじゃないか。
最近は東方シリーズに興味があるので東方を話の種にさせてもらうが、東方シリーズには物語らしい物語なんて無い。ボス級のキャラがトラブルを起こす>霊夢が出向いていって退治する。それだけ。
わたしや消費者が東方の世界観の中で楽しむのはキャラクターであり、自分の頭の中に息づいたキャラクターたちの行動をシミュレートして遊ぶ。キャラクターは動かない(任意に改変されない)けれど物語は動く(二次創作の考案主によって話の展開や登場人物が変わる)。つまり物語りはキャラクターの設定事項の一つ=エピソ−ドになるのに過ぎない。

と、考えればどうか。考えればというより認めればどうか。

わたしは物語をキャラクターよりも上位に評価しようとする傾向があるように思う。物語至上主義っていうんですか。
キャラゲー(キャラクターの魅力を前面に押し出して、ゲーム的な部分やシナリオにはあんまり魅力の無いゲーム)が馬鹿にされ易いようにわたしもキャラクターという要素を一段低く評価しようとしているようですな。

けれど率直に認めるとわたしの感性はキャラクター寄りです。「キャラクター」「物語」「世界観設定」のみっつの要素に重要度をランク付けしようとする場合、わたしの感性では「キャラクター>物語>世界観設定」になるようです。
けれどもわたしの強がりがちな脳みそによると「物語>キャラクター>世界観設定」という順番付けを採用したがっているようです。

その原因はつまり、北野武の「座頭市」やジブリの「千と千尋の神隠し」「ハウルの動く城」などの日本映画を見たときの感想が往々にして「物語にまとまりが無い」という不満になることにあるのでしょう。
「座頭市」ではラストのほうに群集タップダンスシーンがあるじゃないですか。あれは物語上必要ない(論理的に組み込まれて無い)シーンだと思うんですよね。無駄。
同様にもののけ姫以降のジブリ作品にも物語の論理的なつながりのイイカゲンさを感じます。

だから自分は物語構造のしっかりしたマンガが描けるようになりたいなあと感じているわけです。

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| マンガについての考えごと | 15:47 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
東方魔王城
上海アリス幻樂団の同人シューティングゲーム「東方シリーズ」に興味を持っています。

世界観の資料集はアマゾンで先日購入して、実際のゲームはいくつか体験版を今日プレイしました。あとプレイ動画はたまにニコニコで見ます。弾幕が美しく音楽が素敵で、魅力あるゲームです。
シューティングゲームとしてもすばらしいですね。キャラの移動速度の速い/遅いをボタンひとつで切り替えられるところとか、自機の当たり判定が赤丸で表現されているところとか。

この作品は同人ゲームの中ではひぐらしシリーズと並んで二次創作の題材として使われることの多いものです。
ただ、ひぐらしシリーズよりも世界観やストーリーがゆるい分入り込む際に好き勝手し易いと思います。

わたしはひぐらしは大好きなのですがひぐらし題材ではマンガは描けないだろうなと感じます。なぜならストーリーがきっちり決まっているので自分のオリジナルキャラを投入する余地が無いからですね。
一方で東方シリーズにだったら既成の世界観を損なうこと無しに自分のキャラをそこに投げ込むことができます。そういうイイカゲンさ(懐の深さ)があると思います。

なので、こんなのを考えてみました。
東方魔王城。
もしも魔王バラーとその一味が東方シリーズの舞台「幻想卿」に現れたら。
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| 雑記 | 15:01 | comments(0) | trackbacks(0) | permalink |
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