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19120701
デスストランディングをクリアしたのでモードがニュートラルになった。
考え事をして次の動きを構想しよう。

仕事はまだ繁忙期で相変わらず残業しているが峠は超えた感じでウゲーウゲーというテンションではない。
自宅から原付きで通える距離で募集があった社内SEの求人は応募だけした。現在書類選考中みたい。期待しないで待つ。
「自宅から原付きで通える距離の社内SE」という募集は多少レアだけど無いことはなく、グラブルで言うならSSRではなくSRくらい。なので応募中のが落ちたとしても今後もちょこちょこ探していこうかな。通勤時間が片道で1時間短縮できれば週で自由時間が10時間も増えることになる。ぜひ達成したい。


デスストの感想。
道を切り開いてインフラを整えていくというゲーム性はとても良かった。
ミュールやテロリストやBTとの戦闘要素はだるいのでなくてよかった。
終盤、やたらと戦闘がはいるのはうざったかった。
終盤、アメリやダイハードマンの話はどうでもいい感じだったので省くか、かかる時間を9割ほど短縮してほしかった。
最後の最後のBB関連のオチは良かった。
余計なストーリー要素を削って「道を切り開く」「すでに切り開いたエリアのインフラを整えて快適度を向上させる」というゲーム性を伸ばせばひとつの新ジャンルにできるんじゃないかと感じた。


デスストの次にやるゲームとして最近発売されたシタデルに興味があったので買ったんだけどこれは私には合わなかったようで2時間位遊んでアンインストールしてしまった。一人称視点魔法使いゲームというのは申し分ないんだけどサンドボックスゲームなのは私には合わないみたい。マイクラとかやっていられないタチなので。


マンガの考え事。
最近いい刺激があった。大塚英志氏の著作『感情天皇論』を読んだこと。



大塚英志氏の著作はほとんど読んでしまい、新しいのが出るたびに読んでる。


大塚英志氏がマンガ・アニメといった物語を読み解くとき、その着眼点は一貫している。
キーワードは「近代」「他者」「胎内回帰」など。

つまり、物語を通して作者が「理解不能な他者」と対峙することから逃げずにそれを成し遂げ、他者と対話することで「近代的個人として成長する」ことを良しとしている。
自分を無条件に受け入れてくれるような他者性のない慈母的存在に包まれ、その胎内に回帰するオチになっていたらそれに対しては批判する。
この態度が一貫している。

だから、宮崎駿の『崖の上のポニョ』は特に「失敗」として槍玉に挙げられる。羊水の比喩として取れるような母なる海で満たされた世界で母からあてがわれた嫁をもらって終わりというオチで、「他者性のない相手と一体化」「胎内回帰」そのものだからだ。

じゃあ大塚英志が「こういうのが見本だ」といってあげている作品は何かというと、これまで氏の著作を何冊も読んできたんだけど思い当たるものがない。挙げたことがないんじゃないか。つまり、大塚英志の評価軸に沿った作品はほぼ(少なくとも現代の作品には)ないんじゃないか。

で、「大塚英志の評価軸ってのはよっぽど異常なんだな!」と感じるかもしれないけど、私がいいたいのはそうではなく、私も大塚英志の評価軸にかなり賛同しているということだ。
だけど今まで描いてきているマンガが氏の評価軸に沿っているかと言うと必ずしもそうではない。

この評価軸、要は「成長を忌避して甘えたままでいるな」ということだ。
自分を無条件に愛し受け入れて優しく包んでくれる揺りかご(魅力的な異性キャラであることが多い)を求め、そこにとどまり続けたいという願望があり、しかしそれではダメだという問題意識がある。「それではだめだ」と踏みとどまることを評価して、なんだかんだカッコつけてごまかしつつ揺りかごの世界に安住することを失敗とする。

マンガやアニメにおいては具体的には美少女キャラに問題が集約する。
主人公の男性に無条件で惚れて味方になって愛してくれるような美少女キャラ。これが「他者性のない」「胎内回帰先」の典型になる。
だからそれに対していかに踏みとどまるのかということが課題になる。
私が描いてきたマンガではあんまり踏みとどまれていない。
一応、若い頃の作品と最近の作品とで比較すると、主人公(自分の分身)とヒロインたちとの心の距離感が多少離れてきてはいる。FEZマンガ(2007年)ではヒロインは主人公を愛しているというテイで描いてた。魔王バラーでのえりかさんもバラーを愛しているという形だった(2008年ごろ)。

最近のマンガではヒロインと主人公との間で恋愛的な関係は明示されてない。かと言って否定もされてないから留保されていると言った感じ。
シャニマスマンガでも艦これマンガでも、美少女たちは主人公(自分の分身)と概ね良好な関係ではあるけどスキスキといったノリではないようにしてる。だからむしろニコニコ静画のコメントで「イチャイチャが足りない」と書かれたりする。これは一応私なりに「踏みとどまろう」としていることの反映だ。

オリジナル漫画なら、邪竜の翼シリーズではヒロインのピンナとナカヨシとは恋愛的な話はさせていない。これは踏みとどまり。
ヒーローズアンドヴィランズではちょっと踏みとどまりが足りない気がする。ヒロインのマーメイドと主人公のナカヨシとはちょっと感情の距離が近い。



今後の課題。
主人公をちゃんと成長させる。
私は「キャラが変化するのが好きではないので成長など描かなくてもいいのだ」という立場が長かった。
でも成長を描くべきだという意識はあった。
少し前に見出したコツが「成長とはその人物本来の姿に近づくことだ」というもので、邪竜の翼2でのナカヨシにはこの要素の導入を試みた。

以前「主人公自身は成長しない(ぶれない)で、周囲に成長をもたらす」というのをポリシーにすればいいやと考えていたことがある。
なんだけど、これは自分の成長の拒絶を正当化するための詭弁に過ぎないんだなと自覚した。大塚英志氏の『感情天皇論』にまさにそういう指摘がある。著作の中でいくつかの小説に触れてるんだけど、男性作家が女性登場人物の成長を手助けするというパターンを共通して見出していて、「男性による女性の成長促し欲」という「よくある傾向」として指摘している。これは自分が成長しないでいることをごまかすための詭弁だとそれで気づいた。

ああ思い出した。大塚英志が評価している作品、というかシーン。
劇場版『エヴァンゲリオン まごころを君に』のラストシーン。人類補完計画で人類が溶け合った世界においてシンジは溶けずに個人としている。で、同じく個人として存在してるアスカの首を絞めるんだけど、アスカからは「気持ち悪い」と拒絶させる。このシーン。
ひとつに溶け合うこと(他者性の消滅に身を委ねる)ことに対して踏みとどまったのが評価される。
アスカがシンジを「気持ち悪い」と拒絶したことが評価される。ここではシンジにとってアスカは「他者」なのだ。

だからそういうことだ。マンガを描く際、甘いキャンディのような異性キャラは魅力的であるというかマンガを描く魅力の最大の構成要素はそれだ。しかし、それに対して踏みとどまることに、より上位の価値を感じる。しかし困難である。

可愛い女の子に愛されるマンガ描きたいなら描けばいいじゃんという話なんだけど、そういうマンガ描きたいかと言うとちょっと違う。やはり「こういうのを目指したい」というのを考えるときは高尚な頭が働く。だからここでも頭と感情のせめぎあいがあるのかな。頭では大塚英志的な価値基準のちからが強く、実際に描くときにモチベーションを刺激するのは美少女キャラによる甘やかし要素である。うーん。

話が散らばってきた。フォーカスを整理すると主人公を成長させるということ。
* ちゃんと変化する
* 私にとっての成長のイメージは「認めたくない自分を認める」ということ。ケガレの受容
* 慈母的美少女の胎内への回帰欲望に抗う

ということは私は「美しい愛」よりは「しんどい非愛」を描くべきだというのが理屈上での結論になるな。
そうかもしれない。

「愛」とか「好きという感情」なんかは、一種の銃弾というか攻撃の意味があると思う。
それを受ける側にポジティブなものだけでなくしんどさももたらす。
感情によっては執着化してトラブルの原因になる。
薬(毒)のようなものだ。

だから二次元キャラとかアイドルとかはそれらを受け止めるサンドバッグやデコイとしての役割があると思う。(だからここではアイドルは中の人とは切り離された虚像であるべきだという立場)
実体がないから攻撃を受けてもダメージを受ける本体がいない。残像拳とか身代わりの術のようなものだ。
現実世界の人間が現実世界の人間しか好きになれないなら好きのもたらす毒がもっといろいろな害悪の原因になるはずだ。

親子や家族の間には自然な愛情はあるべきで、安定した愛情のある環境が人間の基本的な世界観の形成には必要なのでこれと上記の「好き毒」とは別の話。だから私が毒視しているのは仏教でいうところの愛欲なのかな。

そうだな。「愛毒」の概念と「美少女への踏みとどまり」とは軸を通せば一貫性がある。むしろ「愛は素晴らしい」という主張のほうが通俗的(世間ではそうされているからそう思う)みたいな位置づけだ自分の場合。

この路線で考えてアイデア出せないかな。

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映画なんかを見ていてもくっつきそうでくっつていない男女がいるとして、エイヤッでキスとかしてくっついてしまうシーンになるとがっかりしてしまう。つまり私自身すでに「恋愛はオミットされてるほうがいい」という価値観を強めに持っているということだな。
恋愛小説的恋愛要素で最近感動したものあったかな…? ぱっとは思いつかない。個人と個人とが作中で恋愛的に求め合う時、「いや嘘だろ」とか「個人と個人とは別の主体なんだから委ね合うように求め合うのは無理だろ」みたいに感じていることのほうが多い。そっちに重心を持つべきなのだ。
なんだけど、フィクションなんだから嘘でいいんだなうーん。えろまんがなんかは好き感情があったほうが私は好きだ。あれは割り切って読んでる分野だからだろうか。うーん。
| マンガについての考えごと | 12:16 | - | - | permalink |
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