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19051102
ミスターガラスを観た感想。
以下ネタバレあるので視聴予定のある人は注意。


かなり面白かった。というかスプリットが自分にはストレスフルだったのだがスプリットで感じたストレスはミスターガラスにはなかったのでその点でずっと見やすかった。

私はスリラーとかサスペンスの映画はあんまり見ないんだけどたまに見るとストレスを感じることが多い。
気づいたんだけど園子温監督の『冷たい熱帯魚』観たときのストレスと同系統のストレスだ。
つまり、登場人物が行動すべきときに行動しないと私はストレスを感じる。
スプリットでは女性三人が多重人格者に誘拐されて監禁される。チャンスだろ!ここで逃げろ!というときに彼女たちは立ちすくんで何もしない、みたいなシーンがある。これがストレスになる。
冷たい熱帯魚でも、主人公の気弱な男が殺人鬼の言いなりになって死体処理の手伝いをさせられたりするのがストレスだった。
「登場人物が恐怖や意志薄弱が理由で行動すべきときに行動すべきことをしない」のが私が映画から感じがちなストレスだ。映画に限らず現実世界でもそういうのが私は嫌なんだろう。

脱線した。

ミスターガラス。
アインランディアン思想は相変わらず。
シャマラン監督の作品では対立しているのは善と悪ではない。超人と凡人だ。非常識と常識。
だから作中でスーパーヒーローと呼ばれている存在は超能力者に過ぎず、「善」については考慮がない。
大勢を助けるために一人を犠牲にしなくてはならないときどうするか、みたいな、善についての哲学的な課題は登場しない。監督の関心外であるように見える。

私のヒーロー観。
ヒーローとはインターフェイス(振る舞いの定義)である。行動原理である。人を救ったり助けたりする行動を自発的に行うのがヒーロー。
スーパーヒーローとは、ヒーローであり、かつ、スーパーである。ヒーローとしての行動原理を持っていて、さらに超人的な能力を持っており、スーパーなレベルでそれを実施することができる。

ヴィランも同様に、ふるまいの定義であって、ひとを苦しめたり抑圧したりする行動を自発的に行うものがヴィランである。

関心の順位は
ヒーローかヴィランかの判定 > スーパーかそうでないかの判定
となる。


シャマラン監督の場合まずスーパーがあって、次にヒーローかヴィランかの判定があるように見える。
というより、アンブレイカブル三部作を見て感じるのは、シャマラン監督はスーパーヒーローとスーパーヴィランとを本心では区分していないということだ。同じものである、というかスーパーであることだけが重要でヒーローかヴィランかはどうでもいい。
善か悪かの区分は凡人共がつけたものであって自分(シャマラン監督)の本心ではない。一応視聴者のために便宜的にヒーローとヴィランとの区分があるような雰囲気は匂わせておくけど監督の本心としてはそんなもん撤廃したいんだよね、みたいに見える。

関心の順位は
ヒーローかヴィランかの判定 < スーパーかそうでないかの判定
となる。


一方で、ミスターガラスにはシャマラン監督なりの崇高さがある。自己犠牲の精神だ。
三人の超人は死んでしまうんだけど、彼らの戦いが全世界に放送されることで「この世界に超人は実在する」と知らしめることになり、同じく常人の世界で埋もれている超人たちを覚醒させるきっかけとなったのだ!というふうに美しく偉大な事業が実現されたというオチになっている。
なんだけど、やはり超人であることが無批判にGOODなものとして評価されている。
ミスターガラスのおこなったことが世界に新たな価値をもたらした、よかったね、ということなんだけど、だから彼が実施したビル爆破や電車爆破なんかの大量殺人も役に立ったよねみたいなノリになっている。罪の意識がない。
「超人が覚醒するために行われる事業は悪でも許される」という思想に貫かれている。
ただ、その思想自体が利己的な動機よりも上に位置づけられているところが崇高さであり、面白い。自分の命さえも超人覚醒のためには犠牲になってもやむを得ないという思想になっている。利己主義を超えたものではあるのだ。



マンガの構想。
主人公はヒーロー的。スーパーではない。
敵対者は超人覚醒間近の者。ヒーローかヴィランかの区別を倫理観に持っていない。
敵対者は超人として覚醒するためになにかする。
この「敵対者」というのは必ずしも作中のメインの悪役ということではなく、主人公とコンビを組む相棒かもしれない。

別に構想進んでないな。
シャマラン監督的なモチーフを入れたい。
* 「理解」を巡るやりとり
* 精神科医?私には難しいか

超人は理解されない。
「超常的な能力があるなんて妄想は捨てなさい」という主張がシャマラン監督の作品では行われがち。作中での悪役がこのセリフを吐く。これをいただきたい。
なぜなら、私にとってそんな問いはどうでもいいので、この問いに対する主人公と敵対者との間の温度差を描けたら面白いと思う。
主人公の返答は「超能力があろうとなかろうとどうでもいい、重要なのは与えられた状況下で何を選択するのかということだ」と、こだわらない。
敵対者は「あなたには理解できないかもしれないが」とか「私はこれこれをしたがそれについてはどう説明する?」みたいに、かなりこだわる。
ということはこれに対応して主人公にとって重要だけど敵対者にとってどうでもいいトピックもエピソードにできたら構造上美しいな。
倫理的な問題についてだろうな。倫理的に葛藤が生じる課題に直面し、選択を迫られる。主人公はより良い選択はどちらだろうかと悩むが、敵対者はどうでもいいからどっちでも良いよ、コインかなんかで決めろよみたいな態度になる。
典型的にはトロッコ問題なんだろうけど作中でもっと気の利いた場面にできるといい。


この構想と整合性のある構造を持った映画なりなんなりの先駆作品が見つかると大きなヒントになるが、なんかなかったかな。すぐには思い浮かばない。
…Xメン/ファースト・ジェネレーション?

一旦ここまで。
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