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19050101
アヴェンジャーズエンドゲーム振り返りオフ会の予定が入ったのでそこで語るべき見識を製造すべく振り返りをここで行う。

町山智浩氏のエンドゲーム解説も聞いた。これはでも豆知識の集合体みたいなもので「そんなテーマがあったのか!」というほど彫りの深いものというわけではなかったのでちゃんと引っ張られない自分の意見を構築できそう。

以後ネタバレあり。


前回の考え事で、エンドゲームのテーマは「セカンドチャンス」なんじゃないかというところまで行った。
私としては過去作の総決算としてのエンドゲームというよりはエンドゲーム自体のテーマやメッセージを探りたいという動機がある。

で、巨大な失敗を取り戻して最終的に勝利を取り返すという筋からセカンドチャンスというテーマを見出した。
その他に、町山さんの解説に教えられた視点が、DCのジャスティス・リーグはうまく行かなかったのにマーベルのアヴェンジャーズがうまく行ったのはなぜかというものだ。ジャスティス・リーグやスターウォーズと言った、マーベルコミックに引けを取らない巨大なシリーズが現状ではうまく行っておらず、マーベルの一人勝ち状態になっている。それはなぜなのかと言うのを考えるのは面白そう。

ええと、エンドゲームは監督誰だっけ…
ルッソ兄弟だ。

MCUでのルッソ兄弟監督作品はええと
* キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー
* キャプテンアメリカ/シヴィルウォー
* アヴェンジャーズ/インフィニティ・ウォー
* アヴェンジャース/エンドゲーム

MCU以外の作品では映画もテレビドラマもあるみたいだけど知ってる作品はひとつもないな。

町山さんの解説によるとルッソ兄弟が長年監督してきたテレビドラマはたくさんの登場人物が複雑に絡み合う作品だったのでMCUの多くのキャラが登場するアヴェンジャーズ総決算作品にはうってつけだったとのこと。

こういう指摘もされていた。やはり映画評論家の柳下毅一郎氏による指摘らしい。
「DCは神話だがマーベルは民話である。」
DCのヒーローたちは神的な存在。
マーベルヒーローは我々一般人と変わらない。だからあの雷神ソーでさえエンドゲームでは心が折れてしまってだらしなく腹の出た飲んだくれのおっさんになっている。だから親しみを持てる。

ヒーローの苦境を描くというのはマーベル映画の特徴だと思う。戦いにおける苦境ということではなく人生の落ち込んだ時期を描くというか。
* アイアンマン3
* アントマンシリーズ
* エンドゲームにおけるマイティ・ソー

アイアンマン3ではサノスの軍勢との戦いでトラウマを負ったトニー・スタークがパニック障害になっている。
アントマンのシリーズなんかはそれ自体がテーマだ。アントマン2ではアントマンスーツの調子の悪さにこの「人生の落ち込んだ時期」が象徴されている。
エンドゲームでのマイティ・ソーは今まで培ってきた威厳を一挙に失うダメおやじぶりを発揮している。

だけどこれら全てにおいて、やはり問題は解決されている。
理解者に支えてもらうことで立ち直っている。
アイアンマン3では発明好きな少年との間の友情やペッパー・ポッツとの間の愛情で立ち直る。
アントマン2ではワスプというパートナーを得てピム博士の奥さんの救出をやり遂げる。
ビール腹のソーは過去の世界で再会した母親に助言をもらうことで折れた心をなんとか持ち直す。

失敗したり駄目になったりしても終わりではないということをマーベル映画は繰り返し問いている。


DCの映画『ジャスティス・リーグ』との比較。
やはり、DCヒーローは身近な感じがしない。
ノリが深刻。
敵がいまいちどうでも良い感じで戦いに興味が持てない。
これじゃただの『ジャスティス・リーグ』へのダメ出しに過ぎないな。

ジャスティス・リーグの敵のどうでも良い感じと、インフィニティ・ウォー→エンドゲームにおけるサノスの巨大な存在感とは好対照だ。
サノスは哲学的で純粋に思想によって動いていたのが好印象だ。役割を終えたらさっさとインフィニティ・ストーン壊して、自分の生にも執着しない。彼には彼の正義があって、それに準じている。その意味ではヒーローだ。
サノスは醜くない。

ジャスティス・リーグの敵は…だれだっけ? ダークサイド?
… 調べると、ステッペンウルフとレックスルーサーらしい。ルーサーでてきたっけ…?
やはりよく覚えてない。

つまり、アヴェンジャーズは敵の思想や主張や目的が頭に入りやすいというのが大きな特徴なのではないか。
ヒーロー映画には悪役の目的がわかりやすくて覚えやすいものとなんかよく思い出せないものとがあると。
たとえば平成仮面ライダーシリーズでも敵の目的が思い出せるものと思い出せないものがある。そういう感じ。

キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー:
ヒドラによる監視社会の実現。自動攻撃兵器である空飛ぶ空母でそれを実現しようとする。現実における監視社会の象徴。

キャプテンアメリカ/シヴィルウォー:
ソコヴィアでの戦いに家族が巻き込まれたバロン・ジモによる復讐。アヴェンジャーズ内での仲間割れを引き起こす。

スパイダーマン/ホームカミング:
大企業であるスターク社に仕事を奪われたあるエンジニアが、異星人が地球に残していった兵器の密売に手を染める。
反社会的勢力に強力な兵器が渡ってしまうのを阻止するためにスパイダーマンが戦う。

アヴェンジャース/インフィニティ・ウォー→エンドゲーム:
宇宙全体が人口の増えすぎ(知的生命体の増えすぎ)によって養うことの可能なキャパシティを超えて破滅に向かっている。
人口を半分にすることで宇宙を救うことができる。
インフィニティストーンをもちいてその理論を実現しようとしているのがサノス。


マーベル映画は悪役が優れている。

マーベル映画の中でもあんまり面白くなかったやつを振り返ろう。
というかエンドゲーム振り返りオフ会、別にエンドゲームに話題を絞らなくていいんだな。エンドゲームという節目を迎えて過去のすべての作品を振り返るので良い。その中で特に自分が語るべきカードをここで確認できれば良い。


マーベル映画であんまり面白くなかったものの筆頭はマイティ・ソー/ダークワールドだ。ダークエルフがエーテル使うやつ。
その際立った特徴はDCっぽさ、つまりクソ真面目感、自分にとってどうでも良い感じの規模の大きさだ。

で、マイティ・ソーは第三作目のラグナロクで化ける。コメディ路線に大きく舵を切って、大成功する。このコメディタッチがマーベル映画の本質であるように感じる。

コメディタッチ。
ダメ男要素(上記のアントマン、アイアンマン、ソーなどのくじけたお話)。
神的存在ではなく隣人的存在としてのヒーロー像。
悪役のわかりやすさ。
このあたりがマーベル映画の良い特徴ではないか。

ヒーローを描くときに、神として描くか人間として描くかというのは選択としてあると思う。
神的なヒーローというとやはりスーパーマンがその代表。憧れや理想が投影されるはず。ヒーローを描く動機っていうのは理想的存在を描きたいということなんだからヒーローの基本路線はやっぱり神路線なんだと思う。それをただの人側にいわば引きずり下ろしてきたのがマーベルの発明なんだろう。
ヒーローをただの人として描くことで、ただの人である我々とヒーローとがつながる。つまり我々もまたヒーロー足り得るというメッセージが生まれる。するとヒーローの本質は超人的側面ではなくただの人の中に含まれるものになる。

「ヒーローとはなにか」という問があり、その本質をただの人間にも届き得るものとするのかただの人間には届かないからこそヒーローだとするのかという二択から選ぶことになる。
マーベルはもちろん、ただの人にも届き得るところにヒーローの本質を表明している。
置かれた状況に対してどういう行動を選択するのかというところにヒーローの本質がある。ヒーローとは行動原理のことであり能力のことではない。世界を良くするために、苦しむ人を救うために、行動する。これがヒーローである。パワーは問わない。
だからスパイダーマンホームカミングでのメインの戦いのときがそうであるように、マーベル映画ではしばしば、能力を失った/十分ではない状態で戦いが行われる。

この対極の考え方が、ヒーローの本質を超人的能力に置く立場だ。
ちょうど最近、この路線の映画を見た。シャマラン監督の『アンブレイカブル』だ。三部作なんだけどまだ一作目しか見られてない。
以前ここにも書いた「アインランディアン」思想だ。エリート思想。人間には歴史を前に進めて人類を進化に導く優れた者と、彼らに寄生して生きるだけで生産的なことは何一つしない大衆とがいるという二元論。
ヒーローは選ばれたもの。だから常識に縛られなくて良い。踏み越えて良い。
そうそう、アンブレイカブル見てドストエフスキーの『罪と罰』を連想したんだった。
アンブレイカブルにおいては、この世界の常識やルールというのは愚かな大衆共が愚かな大衆のために作ったもの。真実を知る超人はその枠に収まらない。
アンブレイカブルでは主人公のブルース・ウィルスは本人も認識してないけど超人である。しかし常識にとらわれているので自分が超人(選ばれた者)だと認めていない。お前は選ばれたものなんだと教えようとするサミュエルエルジャクソンが現れて、主人公は最初こいつ異常者なんじゃないかと相手にしない。しかし、自分の能力を認識するにしたがってサミュエルエルジャクソンの言うことが真実であると認めていく。
アンブレイカブルの世界では仮に超能力がなかったらそこにはヒーローが無いという世界観になってる。まず能力があって、能力がヒーローとしてのライセンスであり、次にヒーロー的行為がある。「超能力も持ってることだし、いっちょ正義でも行うかな」という順序になっている。だからヒーローとして自覚したあとに行うヒーロー的行為はおまけに過ぎない。ただのぽっと出の異常者を懲らしめるという程度のものになっている。監督の関心は「真の超能力者であるブルース・ウィルスが世間から異常者扱いされているサミュエルエルジャクソン(=監督の分身)の正しさを認める」というところにある。「俺は天才で、俺のことは真の天才じゃないと理解できない、俺のことを天才だと認めて欲しい」ということが作品の核にあるように見える。

私としてはもちろん、マーベルの哲学がいい。ヒーローとは行動原理である。能力を失ったときこそヒーローの本質が試される。それは現実に生きる我々も試され得るということだ。私はよく、駅とかで、酔っぱらいらしい人が倒れていたり落とし物が落ちていたりしてもスルーしてしまう。それはヒーロー的ではない。キャプテンアメリカならそれをスルーすることはないだろう。私はスルーしてしまうことが多い。ヒーローではない。しかしそこはヒーローになるべきなのだ。私がクズだからそれを実行できてないのだ。つまり、ヒーローは作者/読者にとっても「自分の問題」であるべきで、そう描かれるのが良い。マーベルはそれをやっている。すばらしい。


あー
過去作のおさらいをしておこう。マーベル映画で私がピックアップしたいのは…
* キャプテンアメリカ/ウィンターソルジャー:現実との対応、象徴性。
* キャプテンアメリカ/シヴィルウォー:シリーズで一番好きな作品。展開が読めない。
* マイティソー/ラグナロク:コメディ路線にした実験精神が素晴らしい。
* アイアンマン:一作目。軍事産業の社長が贖罪のためにヒーローになるというオリジン。
* アイアンマン3:トニースタークの弱い面を描く。

今後のMCUについて。
やはりXメン合流が大きいし、私はXメンシリーズが大好きなのでとても楽しみ。Xメンシリーズは象徴性が強くて、私のマンガ『ヒーローズアンドヴィランズ』も影響を大きく受けている。


だらだら書いたが今思いつく限りではここまでかな。
| 映画 | 18:48 | - | - | permalink |
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