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なんか考えよう。

コミケ出展は事故もなく怪我もなく無事終了。疲れた…
やっぱりイベントには積極的には出なくていいなと言うのが感想。出るとしてもコミケはしんどいので以後はオリジナルならコミティア、艦これとかのジャンルモノならそのオンリーイベントがいい。
今回の搬入のために買った折りたたみ台車は非常に性能が良かったのでせっかくの資産を使わないともったいないということもある。

コミケで受けた刺激をモチベーションにマンガについてなんか考えよう。

コミケでお隣のサークルさんと・隣の隣のサークルさんとの作品を見る機会があった。

両方ともSF。世界観設定や描きこみの重要度が高い感じ。
比較して感じたのは、自分の関心は設定よりもお話に寄っているということ。これはまあ常々認識していることだけど。

お隣さんと創作についてのお話で盛り上がり、例によって私は「描き手の描きたいものの核心に興味がある」というところから話をするんだけど、ひるがえってじゃあ自分の「描きたい核」はなんだろうと考える。

今浮かんでいるキーワードは「抑圧からの解放」。

「主人公が困っているヒロインを助ける」というのが私の短編のワンパターンなんだけど、さらにもっと狭義のパターンを抽出すると「抑圧されているヒロインを主人公が助ける(解放する)」というパターンしかないような気がする。

現状で最新の短編である『邪竜の翼』。ヒロインのピンナは変な司祭に邪悪な竜だと決めつけられて翼を奪われ洞窟に閉じ込められている。抑圧されている。主人公が解放する。

現状で最新から二番目の短編『メフィストフェレスのアイドル』。ヒロインのリザードマン女子は「トカゲびとがアイドルになれるわけねえだろ」と種族を理由にしてアイドルになるチャンスを与えられない。抑圧されている。悪魔メフィストフェレスが彼女を手助けし、ヒロインはアイドルになる。

昔の短編『ネクロマンサーの娘』。ヒロインはネクロマンサーを母親に持ち、死霊術の才能を持つ。父親が彼女の才能を利用しようとする。抑圧されている。主人公が一緒に逃げる。

パターンが同じだ。

映画『デットプール2』で私はミュータント用刑務所のシーンでかなりぐっと来た。それはおそらく、ミュータントへの抑圧が端的に表現されているからだろう。
映画『Xメン フューチャーパスト』では、ミュータント絶対殺すロボ「センチネル」が出てきて、Xメンはこれと戦う。これにぐっと来る。センチネルはミュータントへの抑圧の象徴。

つまり、「困っている」「助ける」という広義の概念で認識していた「私の描きたい要素」は解像度を上げると「抑圧」「解放」であるらしい。
私がXメンを好きなのは、常にマイノリティへの抑圧をテーマにしているからなのではないか。



もう一個検討したい。
私の最近の主人公は僧侶ジョブが多い。
すると抑圧されている人物を僧侶ジョブ主人公が解放するというパターンになっているはずだ。
すると仏教による救いを描きたがっているのか? どうもそうではない気がする。

どういうパターンで解放してるっけ?
邪竜の翼では洞窟から出してやっている。物理的に助けている。一応「なりたいものになれ」と教えを説いているけどそれは枝葉的な要素だな。
メフィストフェレスのアイドルでは変身アイテムを与えている。やはり物理的に解決。
ネクロマンサーの娘では支配者から逃げている。物理的な解決。

つまり、解決は物理的。物語構造的。何らかの思想や教えで救うのではなく(精神を変更させるのではなく)、境遇を変えてやっている。アクションとしての解決。だから僧侶ジョブである必要はない。

なんだけど、作中のポジションでは抑圧に対するアンチテーゼとしての存在が主人公になる。

抑圧とはなにか。
私の理解。
* (甲が乙の)自由を奪うこと。
* (甲が乙の)決めつけ・レッテル貼りを行うこと。

つまり、ここでは内面化された抑圧のことではない。ジークムント・フロイトのいう「抑圧」では、性的衝動や反社会的衝動を無意識下に押し込めるという防衛機能のことをいうけれどそのことではなく。

なんだけど、抑圧というテーマを広げていって個人の精神の解放というところにあたらしいテーマを見いだせるかもしれない。他者からの抑圧を受け続けるとその抑圧を内面化する。呪縛というやつ。その解放。その解放のためには「心を変え」る必要がある。すると宗教や教えの世界になってくる。これは多少うざったい。

内面化された抑圧からの解放。何によって可能になる?
ただ教えを説くだけでそれが変わるのなら簡単だがドラマがない。つまらない。ご都合主義だ。
本人が殻を破らねばならない。他人がそれを手助けすることはできるだろうが「やってあげる」ことはできない。
すると、イベントとして物理的に解放するのと思想として教えを説くのとは可能で、それは「手助け」になるかもしれない。それ自体が内面的抑圧からの解放をもたらすわけではないがきっかけになる。
うーん。

一応邪竜の翼ではピンナが脱皮をして成長することが精神の成長の表現になっている。内面化された抑圧を克服しているという象徴。
しかしそんなにさらっとそれを達成させていいのか?
いいのかもしれないうーん。

一旦仕切り直そう。
ええと次のマンガの具体的なアイデアにつながる道筋を見つけたい。

と、いうか内面化された抑圧を私が描きたいのかというと実はそうではないな。内面化の前のステージが描きたい気がする。つまり、抑圧者と被抑圧者とがおり、解放者が物理的に解放する。

最近考えたアイデアに応用すると?

安全な街への入場を拒む門番。
遭難者の救助を拒絶する船長。
宇宙船の自己防衛AIシステム。

「他者への抑圧者はコミュニティを守るためによそ者を疑い抑圧することで防衛している」というテーマかな。
抑圧は悪意からではなく守るべきものを守るために行われている。つまり「うち」「よそ」の区分があり、前者を優先させるという思想。

なので、このよそ者抑圧防衛システムを打倒するというお話にする場合、「よそ者を信じていいのか」という問題提起に対してYESを選択するということになる。現代日本に置き換えれば難民や移民の受け入れをすべきだという主張になる。
いいんじゃないか。

つまり、答えが明らかではない問題についての態度を表明するというのは方針として私には好ましい。
例えば『からくりサーカス』では、この漫画は超名作だが、ゾナハ病を蔓延させるオートマタについては疑いようのない悪として解釈してしまって構わない。明確な答えのある問題なので解も一種類しかなく、そこは無難に感じる。

答えが自明ではない問題を提起し、作者の選択を示すほうが私にはエキサイティングに感じる。

よそ者抑圧防衛システムを倒す。抑圧されているよそ者を自分たちのコミュニティの内側に迎え入れる。それを正義として描く。現状ではこのあらすじを描きたいと言えるんじゃないか。

これに沿って練るべきだな。

今日はここまでかな。コミケ疲れと親戚新年会疲れを取らねば。
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