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アイデア練り。

チャレンジャーポジションの呼称を召喚士としておこう。現状の脳内イメージでは召喚士だ。

召喚に失敗した召喚士に世論からの非難が集まり、何らかの具体的な制裁が行われようとする。例えば召喚術には杖なりクリスタルなりを使わねばならなく、それを没収しようとするとか。
法律による決定ではないとしよう。集団による私的制裁。法律が絡むと話がややこしくなるので。
主人公は召喚士を守る。シーンのモデルは『アラバマ物語』でアティカスが留置場にいる黒人容疑者を押しかけたリンチ集団から守るところ。

主人公は成功者に対して下位の存在であるほうがよい。構造として下位であることを示す。たとえば社長と平社員。大司教と司祭。ブロックバスター映画監督と自主映画制作者。
主人公は世論=周囲の考えに流されない。
主人公はポジションによって考えを動かさない。
主人公は自分より上位の者の考えに染まらない。
自分で考えて自分の意見を持つ。

主人公を僧侶にするなら成功者は大僧正みたいなポジション。
しかし成功者のイメージは競争社会での勝者というものだから宗教界の存在だとピンとこない。
ファンタジー世界でどう表現する?
何らかの競技のチャンピオン? 「私は負けたことがないがあの者は負けたわけでしょう? なら退場すべきだ」みたいな論理を振りかざす。

主人公と成功者の関係をジョブつながりでの上下にするといつも聖職者対聖職者になっちゃうな。すでに邪竜の翼がそうだ。
ジョブではない軸で上下を付けられるとよい。裕福さ?

今回の成功者のイメージは北野武監督だから芸術家にすればいいんじゃないかと思うんだけど、主人公を芸術家にはしたくないんだよね。主人公が創作家だとメタ構造がループするというか、描き手である自分との距離が近くなりすぎる。象徴による置換えを経ない構造になってかえって扱いにくい。一時期は描こうとするマンガの主人公が常に画家かマンガ家になっちゃってた時期があるんだけど、進歩した結果「主人公を創作家にしないほうがいい」という学びを得たんだよね。

ところで北野監督が邦人ジャーナリストについてしたという発言、実は自分はきちんと内容知らないな。ちゃんとチェックしておくか。

ちょっと検索すると概要まではすぐわかるんだけど、北野武が番組内で実際に発言してるところの映像はすぐには見つからない。めんどいから探さなくていいや。
というかYouTube動画でテキストだけ流すゴミみたいなコンテンツばかりが大量にヒットする。検索性を落とすこういうコンテンツは世界の害悪ではないのか。

いちおう、北野武が安田純平氏に対して批判しているというのは事実だったと考えても良さそうだ。

YouTubeにテキストオンリーゴミコンテンツをアップしてるような情報ゴミ製造者(広告収入のために裏取りもしないアオリ記事を無限に生成するような)を悪役として出す? いやでもこういうムカつくだけの存在は描くこっちがストレス溜まるんだよな。
ただ、召喚士に対して具体的な危害を加えようとする「大衆」を作中に出すとして、彼らが象徴するのはこういうゴミ製造者のことだろうな。いや、違うな、ゴミ製造業者の製造したゴミ情報に汚染された人々がこれに該当する。ゴミ製造業者自体は間接的な役割だな。
召喚士の失敗を攻撃する情報を流布することで儲ける業者が作中にいればそれがこのゴミ製造者だな。ファンタジー世界におけるジャーナリズム…? 新聞業者かなあ。


召喚士が異種族の危機を救おうとして大魔法にチャレンジし、失敗する。
その失敗が尾ひれの付けられた記事となって本国(作中の舞台)で流布し、召喚士へのバッシング熱が高まる。
成功者はそのバッシング記事の論調に染まる
主人公は染まらない。


主人公と成功者のジョブはまだ決まらないが一旦区切ってDVD見るか。
| マンガについての考えごと | 10:31 | - | - | permalink |
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